岩礁交じりのサーフ、魚が入れ食い

能登ロックショア釣行記
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二人での釣行。
釣り場は、岩礁混じりの広大なサーフ。
思ったよりも波は高く、釣りになるのか怪しい。だが、やってみないとわからないので、それほど気合が入ることもなく話をしながら準備をゆっくりと済ませ、様子見に適当な場所から始める。
初場所でポイントが絞れないので、私はランガンしながら、かっとび棒シャローライトを遠投し広範囲を探る。
所々、払い出しがあるが、魚の反応はない。砂浜には豆アジが1匹打ち上げられていた。1kmほど歩いた地点で折り返し、飛びすぎダニエルにルアーチェンジし、元来たところに戻りながらランガンしていると払い出し箇所の波打ち際でフクラギがヒットする。少しレンジを入れて、かつブリブリと泳ぐアピール度の高いルアーが効いたのかもしれない。釣れたフクラギは豆アジを吐き出した。ベイトはいるようだ。


サーフでは魚を活かしておくのが難しいので、一旦、車に戻り魚をクーラーに入れる。
すると、釣友がシーバスを3匹ぶら下げている。
近づいて聞くと「入れ食い」とのこと。
「どこで釣れた」と聞くと。
はじめにやっていた「すぐそこの先端」とのこと。岩礁間の溝には小さな魚が数多く目に入る。風波で流されてきたのかもしれない。
さっそく、そこでやってみる。するとすぐに反応があり、フクラギをキャッチ。その後も連続でフクラギがヒットするが、バラシも頻発する。

波が高く流れも強いので魚の方もバイトの精度が落ちるのかもしれない。手前に岩礁の張り出しがあり、そこを越えてのブレイクまで遠投が必要なので、飛距離のあるルアーが適する。ヘビーショット105、ストロングアサシン、飛びすぎダニエルが効果的だった。


次にシーバスが2匹ヒットするが、バラシ。シーバスの活性は高く、海面から魚体を出してベイトを捕食しているのが見える。掛かったときの引きは強く、かつ地形が複雑なので寄せるのが難しい。


一帯は広範囲で釣れそうなので、釣りがしやすい場所に立ち位置を変更する。
そこから投げても、すぐに反応がある。波が高いがタイミングを計って波の裏にルアーを入れて引き波で泳がせると一発で食ってくる状況。

まだ釣りを始めて1時間ほどしか経っていないのに、釣友は早々に釣り具を置いて、海を眺めている。
釣友に聞く。「まだまだ釣れるけど、やらないの?」
「もう3匹も釣ったし充分」
食べる分としては3匹あれば充分である。必要以上に釣らない。なかなかできることではない。

私も最終的にシーバスを3匹キャッチし終了とした。ミノーが最も効果的だった。特に友人が貸してくれたアローヘッドは、飛距離が優れていて、潜行レンジも今場所のシャローのサーフにマッチしていた。

釣った魚を殺して食べることは可哀そうという意見もあるが、釣った魚は食べて、自分が生きるための糧とする方が自然だと思う。むしろリリースすることの方が不自然な行為と思う。しかし、私自身、釣ることそのものを楽しい行為であると感じていることも認める。

昔、釣りをしない人から言われたことがある。「釣った魚をリリースするなんて、魚の命をもてあそんでいる」これには反論できなかった。全くその通りである。

魚釣りをして間もないころから、今に至っても変わりないのは、釣った魚を殺すときの心の痛みである。生き物を殺すことはつらいことである。だけど、自分が生きていくためには、他の生き物を犠牲にしなくてはならない。釣った魚を殺すことは、お金を出して、魚や肉を買うのとは違った責任感の重みがある。(だが、家畜と自然の生き物の命の重みは違うという意見もあるようだ。家畜は食べるために人為的に生まれさせたのだから、生き物というよりは食べ物であるから自然界の生き物とは命の重みが違うという考えである。)

昔、釣りに対する姿勢を、釣った魚をどうするかについて、よく釣友と話し合った。
そこで得た結論を友人は今も実践している。

まだまだ釣れるのに、早々に釣りをやめることは私にはなかなかできない。年に数回ではあるが、釣りを楽しむことを優先してしまうことがある。

釣りの腕を上げるにはたくさんの魚を釣って放す方がいいことはわかっている。そうすることで功名心や虚栄心が満たされることもあると思う。しかし、そうではなく、人間の真価が問われるのは、どれだけ本能や欲望に抗って、厳しくとも自分の信じた行動を実践できたかだと思う。そこに真実の人生があると思う。

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